先生はトイレです。

先生はトイレです。

小学生のときである。
授業中にトイレに行きたくなり挙手をし、
「せんせートイレー!」と私が言うと、
「先生はトイレじゃありません!」
とレスポンスしてきた先生がいた。

皆さんも、
上のようなツッコミを持ちネタとしていた先生に会った経験がないだろうか?
あるはすだ。あってほしい。共感してほしい。

こうなると、
「先生、トイレに行ってもいいですか」
と言い直すハメになり、
持ちギャグでややウケを取った先生は
したり顔の悦に入った表情をして、
トイレに行く私を見送るのだ。

そして、私は廊下で
「先生のウケのダシに使われた…」
という搾取感と尿意にさいなまれながら、
いそいそとトイレへ向かうのであった。

だが、その搾取感と尿意とは別に、
「なんかおかしい」
という”違和感”を覚えていた。

大人になった今なら分かるが、
その違和感の正体とは
「私は「先生はトイレ」とは一言も言ってない」
という点である。


よく考えてみてほしい。
私は、
「先生 トイレ」
という名詞を2つ羅列した会話文を発しただけである。
この幼気な子の発言に何かしらの含意があるとしたら、
大人である先生は言葉を補って解釈しなければならない。

だが、
「先生 トイレ」という言葉の間に入る助詞は、
いくつも可能性がある。
「先生のトイレ(述語の省略)」かもしれないし、
「先生がトイレ(述語の省略)」かもしれないし、
「先生にトイレ(述語の省略)」かもしれないし、
「先生とトイレ(述語の省略)」かもしれない。
あるいは、助詞が入る訳ではなく、
「先生、トイレ(述語の省略)」という呼びかけの
表現かもしれない。
(というかこれが正解である。)
いずれにしても、
多種多様な助詞や述語の中から、
1つを選び補って解釈をする必要があるのだ。

それにもかかわらず、である。

なぜ先生は、数多ある解釈から、
この私が「先生はトイレです」と
発言したと断定できるのであろうか?

もし、その場にコンテクスト(文脈)がない状況ならば、
私の発言内容が断定できないので、先生は
「トイレがどうしたの?」
などと詳細を訊く必要があるし、
コンテクストがあるなら、
コンテクストに従って助詞や述語を補えばよい。

学校の授業中に手を挙げて発言する時点で、
コンテクストは存在している。
そのうえで、
「先生 トイレ」という発言がくれば
「ああ、この子はきっとトイレに行きたいんだ」と読み取れるはずである。

よって、先生に対して
「先生 トイレ」と言っても、
先生は「先生、トイレに行ってもいいですか」などと
脳内補填をしてくれているはずであり、
そういった私の発言の含意を理解したうえで、
それでもなお、
「先生はトイレではありません」とか言う先生は、
もはやただの意地悪である。
陰険である。歪んでいる。
心がヘルニアである。

もう子ども同士が口喧嘩をしても、
説教はおろか仲介する資格すらない。

こんなことを言うと、
「ちゃんとした発言をできるようになるための教育だ」
とか言われるかもしれないが、
そうだとすれば、
「先生 トイレ」と子どもが言ってきたときに、
「そういうときは、「先生、トイレに行ってもいいですか?」って言うんだよ」
などと言えばいい話である。

子どもからすれば、
先生は自分の言いたいコト
(=トイレに行きたい)を理解しているのはずなのに、
あえて、
こちらの発言に対して歪んだ解釈をして、
こちらには若干の恥と後悔を与えながら、
自身は笑いをとってコメディスターになってご満悦になっているただの意地悪な大人であり、
私が当時「コ…コイツっ…!」と歯ぎしりをさせながら
ダークサイド落ちてしまったのはやむを得ないのではないか。

ここまで書き終えて、
正直なぜ「先生 トイレ」への違和感で
こんなに文字数を費やしたのかは分からない。

ただ、トイレだけに
(トイレにもかかわらず)
簡単には水に流せないことだったのだ。