“異世界転生系”に対して抱く違和感

“異世界転生系”に対して抱く違和感

先に断っておく。

書き始めたら止まらなくなってしまった。

長文になったことを許してほしい。

また、以下の文章は“異世界転生系”を否定する意図はまったくない。

様々な作品の形があってよいと思うからである。

1.“異世界転生系”への違和感はどこからくるのか

 漫画やアニメーションの作品に、いわゆる“異世界転生系”なる作品領域がある。概ねの場合、“異世界転生系”の作品の冒頭では、一般的な現実世界を生きる普通の人間(大概男性)が電車に轢かれるか人に殺されるか地面に現れたブラックホールのような暗闇に吸い込まれるか、いずれにしろ何かしらの突然の不幸に見舞われ、現実世界において死亡あるいは消滅する。その後、あるいはそれと同時に、魔法使いに召喚されるか謎のゲームマスター的機能が働くかして、ファンタジックな異世界に転生し、その異世界を舞台に繰り広げられる主人公の生を物語として描き出すのが、“異世界転生系”の作品である。

 “異世界転生系”と言うだけあって、漫画・アニメーションにおいて人気作品も数多く、また作品数自体も多い。私も何度か“異世界転生系”ものを観賞した。だが、どうも途中で観賞をやめてしまうきらいがある。“異世界転生系”が好きな友人にそのことを伝えると、「なんでやめちゃうの?つまらないの?」と訊かれるが、「なんか違和感あって飽きちゃうんだよね」というお粗末な回答しかできていなかった。

 そこで、ここでは私がなぜ“異世界転生系”にすぐ飽きてしまうのか、私の持つ違和感の根幹とは何なのかというのを考えていきたい。

2-1.主人公の異世界への異常な順応性の高さとメタ視点

 “異世界転生系”は、大枠でくくればファンタジー作品と言える。だが、通常のファンタジーと大きく違うのは、異世界へ転生した主人公は「私は今まで生きていた世界とは違う、ファンタジー世界の中に現在居るのだ」という世界へのメタ的な認識(以下メタ視点と呼ぶ)を持つところである。そして、このメタ視点を主人公が獲得するまでの早さが尋常ではないのだ。

『転生したらスライムだった件』では、転生後の主人公は外見が人間ではなくスライムになってしまっているのだが、水面に映った自身の姿を見て驚く度合いは、酔って寝ている間に顔に書かれた落書きを朝に鏡で見て驚くのと同程度かそれの延長くらいである。後述する“異世界転生系”における主人公のハイスペック性などよりも、この“主人公の異世界への異常な順応性の高さ”こそ、最大の“主人公補正”と言えるだろう。中には、異世界召喚されたその初日にうまくいかないことが続くと、

「異世界召喚じゃねーのかよ!?俺の主人公設定はどこいったんだよー!」

『Re:ゼロから始める異世界生活』

という異常な異世界への順応性の高さ、メタ視点の獲得の早さが窺えるコメントをする主人公もいる。もはや順応性が高いというレベルではない。きっと作者が転生前の主人公に台本を渡しているに違いない。

 “異世界転生系”への違和感の要素の1つは、この異世界への順応性の高さ、メタ視点を獲得する早さにある。なぜ自分が異形の生命体になってもハロウィンで友人の仮装を見た程度の驚きしか示さないのか。なぜネコや犬の形をした生物が二足歩行で服を着て言語を喋っていても、夢や幻覚だとその世界を拒絶し、苦悶しないのか。なぜ壮大なドッキリを仕掛けられているとは考えず、一晩も眠らぬ間に自分が異世界に来たと確信できるのか。仮に異世界であると確信しているとして、盗賊がいるかもしれないし、貴族にサーベルで斬られるかもしれないのに、なぜ街の通りを堂々と闊歩し観光できるのか。

 自分の生きていた世界から隔離されるという一大事に、その精神的な余裕はどこから来るのか。転生先の異世界のことを把握していないのに、あたかもその世界でも自らの生が保証されていることを確信しているような“生への余裕”はどこから湧いてくるのか。そのような違和感をぬぐい切れない。

 比較のために述べると、“異世界転生”ではないが“異世界転移”とは言える『千と千尋の神隠し』では、私は上述したような違和感を覚えることはない。主人公の千尋は迷い込んだ異世界に対して、

「うそ……夢だ、夢だ!さめろさめろ、さめろ!さめてぇ……っ……」

「これは夢だ、夢だ。みんな消えろ、消えろ。消えろ。」

「あっ……ぁあっ、(自分の体が)透けてる!……夢だ、絶対夢だ!」

『千と千尋の神隠し』

と強烈な拒絶を示す。物語を通して、千尋は異世界に少しずつ順応していく様子も見られるが、異世界に迷い込んだというメタ視点を働かせているような描写はなく、そもそもそのようなメタ視点を確立するような精神的余裕もなく、今眼前に広がる世界を必死に生き抜いて豚になった両親を救うことに千尋の視座が置かれていることが窺える。たしかに、よく考えればカエルが喋ったり、オジサンが蜘蛛のように手足を生やし伸ばしていたり、オジサン3体が首だけで動いていたりしても、驚き怯え震えながらも卒倒したり嘔吐したりせずに立っていられたという点で、千尋は異世界への順応性が比較的高いと考えることもできるが、上述したように千尋は“異世界転生系”の主人公の持つような異世界への異常な順応性の高さを持ち合わせていない。千尋という主人公の異世界への順応性のなさ、メタ視点のなさこそ、観賞者を作品の世界に没頭させるものである。一方、“異世界転生系”の主人公は観賞者と同じメタ視点を持っており、主人公がメタ発言をするたびに、私の興が醒めるのを感じる。

 このように、“異世界転生系”の主人公の異世界への異常な順応性の高さとメタ視点こそ、観賞者が作品に没頭できず違和感を覚える“ノイズ”になっているのではないだろうか。

2-2.“観賞者のストレス”を大幅に解消してしまうご都合主義

 カードバトル系漫画・アニメーションである『遊戯王デュエルモンスターズ』の主人公遊戯は、バトルというバトルで毎度毎度絶対絶命のピンチに追い込まれ、もうあと一歩で敗北するというところで

「俺はこのカードに、すべてを賭ける!」

『遊戯王デュエルモンスターズ』

というような旨の啖呵を切る。そしてその賭け(と言ってもルール上積みあがった一番上のカードを強制的に引くだけなので、自分に行動の選択権がないという点で賭けというよりは神頼み)が成功し、“このカード以外を引いていたら確実に負けていたが、神の一手で勝利した”という奇跡の逆転劇を演ずる。このような、出来事の原因はよく分からない(もしくは奇跡的である)が主人公にとって都合のいい展開、あるいは作品を面白くしたかったり、細かい説明を省きたかったりする作者にとって都合のいい展開を、ご都合主義(的展開)と呼ぶことがある。

 “異世界転生系”では、現実世界から異世界へ転生することは作品において不可避な展開なのだが、転生それ自体はご都合主義である場合が多い。例えば、誰かによって異世界に召喚される作品では、なぜ数多いる人間から主人公が選ばれて召喚されるのか(ランダムな人選で召喚されるケースもあるのでその限りではないが、ランダムに選んだのに主人公が選ばれるという点でご都合主義であると言える)、他に主人公と同じような境遇の人間も現実世界にはいただろうに、なぜ他の人は異世界へ召喚されなかったのか(これも現実世界の他人も一緒に召喚されるケースもあるのでこの限りではない)、など、転生それ自体の仕組みは物語を読み進めていても明らかにならない場合が多い。

 ただし、私はそのような“物語の展開上必要な、詳細を割愛するご都合主義”を問題にしたいわけではない。例を挙げると、タイムリープで異なる時空世界を行き来する『僕だけがいない街』では、主人公悟は記憶を維持したまま、過去や未来の自分に絶妙なタイミングでタイムリープする。このタイムリープこその物語全体の構造の根幹であるが、タイムリープそれ自体の仕組みは作品上では明かされていないという点で、まさしくご都合主義のタイムリープと言える。だが、『僕だけがいない街』において、「なぜ悟はタイムリープできるのか?」ということは、物語の展開上では重要ではない。このご都合主義のタイムリープの構造が如何なるものであっても、物語の展開に影響は与えないし、むしろタイムリープの構造の語りに時間を費やしてしまうと物語の主軸がずれてしまうという点で、このタイムリープは“物語の展開上必要な、詳細を割愛するご都合主義”であると言える。

 “異世界転生系”ではとにかく主人公が“転生した”ことが重要なのであり、転生の仕組みを細かく設定し語ってしまうと、本来作者が描きたい異世界転生後の主人公の生の描写にページが割けなくなってしまうということも踏まえると、“異世界転生系”における転生それ自体がご都合主義であることは問題とはならないのである。

 では、私が“異世界転生系”におけるどのようなご都合主義に違和感を覚えるかというと、“観賞者のストレスを大幅に解消してしまうご都合主義”である。

 漫画やアニメーションを観賞していると、観賞者がストレスを感じるシーンがある。それは主人公が挫折したり、自分の好みのキャラクターが死んでしまったり、それこそ『遊戯王デュエルモンスターズ』の主人公遊戯のように、登場キャラクターがチェックメイト寸前のピンチに追い込まれたりなど、様々な状況下で観賞者のストレスが発生する。このストレスは「ハラハラ・ドキドキ」などと言い換えてもそこまで差支えはないのだが、このような“鑑賞者のストレス”は物語に趣を生じさせる上で重要な要素となり得る(ただし、“観賞者のストレス”がない作品がつまらないというわけではない。いわゆる“日常系”とカテゴライズされる作品や、コメディー作品には、鑑賞者のストレスが不在である場合が多く、そしてそれゆえに鑑賞者がそれらの作品に惹かれるというケースは多い。)。

 “異世界転生系”における“観賞者のストレスを大幅に解消してしまうご都合主義”とは、多くの場合主人公の初期状態における能力の高さ、ハイスペック性である。『転生したらスライムだった件』では、主人公リムルは転生後の初期能力の圧倒的な高さゆえに、次々に現れる敵をいとも簡単に倒してしまう。バトルシーンで多少ダメージを受けることはあっても、圧倒的不利な状況に立たされたり、主人公リムルがヒューマンエラー(異世界でスライムになっているのでスライムエラーと言うべきか)を起こして何か大失敗してしまったりすることがない。仮に多少のミスがあっても、そのハイスペック性ゆえに状況を簡単にリカバリーしてしまうのだ。

 このような転生後のハイスペック性を見ると、主人公がその人でなくても、——『転生したらスライムだった件』であれば、転生したのがリムルでなくても——主人公が誰であろうと、(よほど人格的に問題がなければ)そのハイスペック性で敵を倒し、仲間から信頼を勝ち取り、前へ進んでいくことができるだろうという感じを受けてしまう。“観賞者のストレスを大幅に解消してしまうご都合主義”により、物語の展開が観賞者の予想を裏切ることも少なく、良くも悪くも予想通りな、ストレスフリーになった物語において、主人公その人が主人公として物語を紡ぐことの必要性を感じなくなってしまうのである。『僕だけいない街』で主人公が悟である必要性と、『転生したらスライムだった件』で主人公がリムルである必要性は、大きく異なるように感じるのだ。要するに、「そんなのだったら誰でもいいじゃん」となってしまうわけである。

 このように、“異世界転生系”作品における“観賞者のストレスを大幅に解消してしまうご都合主義”は、主人公が主人公たる必要性が低下するという点で、私に違和感を覚えさせる。

3.まとめ——主人公の生のリアリティの欠乏——

 ここまで、“異世界転生系”の作品に私が違和感を覚える要素として、“主人公の異世界への異常な順応性の高さとメタ視点”と“観賞者のストレス”を大幅に解消してしまうご都合主義“の2つを挙げた。これらの要素を踏まえたうえで、”異世界転生系“全体に通底する違和感の根幹とは一体何なのかを述べたい。

 実は、私が“異世界転生系”の作品の中で“異世界転生系”特有の違和感を覚えない作品がいくつかある。例えば、『幼女戦記』はいわゆる“ミリタリー系”の作品であるが、同時に“異世界転生系”の作品である。主人公は現実世界で日本のエリートサラリーマン(男性)として生きていたが、駅のホームで解雇した元部下に突き落とされ電車に轢かれる瞬間に異世界へ転生する。その世界で主人公はターニャ・フォン・デグレチャフという幼女に転生し、SFチックな戦争において『進撃の巨人』のリヴァイよろしく最強の兵士として前線で活躍する。

『幼女戦記』では、転生した主人公ターニャは他の“異世界転生系”と同様に初期能力がハイスペックである。だが、そのハイスペック性が“観賞者のストレスを大幅に解消してしまうご都合主義”の片棒を担ぐことはない。むしろ、ターニャの目論む展開——「出世して安全な後方でエリートコース!」という展開——は、ターニャの戦線におけるハイスペック性ゆえに、何度も頓挫し、観賞者にストレスを与える(ざまあみろと思う人もいるかもしれないが)。どんなにターニャが策謀を巡らしても、前線へ、さらに前線へと配置され、ターニャは

「どうして!!!こうなった!!!」

『幼女戦記』

という物語ではお決まりのセリフを吐くのだ。

 また、“主人公の異世界への異常な順応性の高さとメタ視点”について言えば、ターニャはメタ視点は持っているものの、主人公の異世界への異常な順応性の高さについては、なんとも言い難いところである(物語では主にターニャが9歳あたりから細かく描かれているが、異世界転生後は赤ちゃんからスタートしているので、経過年月を考慮すると順応性の高さは測りづらい)。だが、いずれにしても、“主人公の異世界への異常な順応性の高さとメタ視点”が、『幼女戦記』において違和感の要因となることはない。なぜならば、“主人公の異世界への異常な順応性の高さとメタ視点”によって通常の“異世界転生系”の主人公が獲得するはずの“生への余裕”が、ターニャには見られないからである。

 『幼女戦記』では、転生先の異世界において、ターニャが“存在X”と呼ぶ異世界の神のような存在(ターニャはこの存在Xによって転生させられた)がターニャに神への信仰心がないとして、改心するか死を選ぶかの選択を迫るが、ターニャはこれらを拒絶し続ける。よって、存在Xはターニャを追い込むべく、ターニャがどんなに安全な後方勤務を願い画策しても、異世界における因果を調整し、前線へ、さらに前線へと、すなわち死の淵へと追いやるのだ。一方、ターニャはどんなに“存在X”が異世界における因果に介入してこようとも、持ち前のハイスペック性と、生への執念によって、戦線を生き抜くのである。他の“異世界転生系”には見られないこのターニャの生への執念——神も信じないし死も選ばない、絶対に“存在X”には屈服しないという執念——は、同時に“異世界転生系”の主人公が獲得するはずの“生への余裕”の不在を示す。もちろん、そのハイスペック性ゆえ、ターニャが赤子の手をひねるように勝利する戦いもあるが、物語全体に通底するターニャの強い執念によって、“異世界転生系”特有の「あたかもその世界でも自らの生が保証されていることを確信しているような“生への余裕”」という違和感が生まれないように作られている。たしかに、『幼女戦記』のターニャは戦争の前線に立つという物語上、否応なく常に命の危機に晒されているので、生への余裕がないのは当然であろう、という見方もあるが、『転生したらスライムだった件』などにおいても、戦闘は恒常的に起こっているという点で、本来は生への余裕がないはずなのである。

 “異世界転生系”作品の違和感の根幹は、この特異的状況・危機的状況における主人公の生への余裕であり、自身の生が脅かされている危機的状況にもかかわらず自分が死ぬとは微塵も思っていないような振る舞いをする主人公の生のリアリティの欠乏にあると言える。繰り返しになるが、なぜ動物が喋っている状況を易々と受け入れられるのか、私には合点がいかない。

「橋を渡る間、息をしてはいけないよ」

『千と千尋の神隠し』

と青年ハクに神妙に忠告されたにもかかわらず、目の前に服を着た喋るカエルが登場すると思わず息をして人間だとバレてしまう千尋の“ポンコツさ”こそ、異世界を生き抜こうとする主人公の生のリアリティではないのか。この主人公の生のリアリティこそ、作品の主人公を主人公たらしめるものであり、生のリアリティが欠乏しているからこそ、“異世界転生系”の主人公その人が主人公として物語を紡ぐことの必要性を感じなくなってしまうのではないだろうか。

 どうしてそう思えるの?どうしてそういられるの?どうしてそう言うの?というのが“異世界転生系”作品への私の違和感であり、飽きてしまう要因なのだ。

 現代日本の“異世界転生系”作品を読めば、ターニャも「どうして!!!こうなった!!!」と言うに違いない。