ソーシャルディスタンスの“ソーシャル”って必要ある?

ソーシャルディスタンスの“ソーシャル”って必要ある?

…タイトルの通りである。
以上。
お疲れ様でした、とはいかない。

世の中そうは問屋が卸さないし、
そうは上司が決裁印を押さない。

ただ、
「ソーシャルディスタンスの“ソーシャル”という形容詞は不要なのでは?」
と思われている方もいらっしゃるはずである。
ディスタンス!でいいじゃないか、と。
あるいは、
「ソーシャルディスタンスは2m以上取りましょう」
というような言葉の使われ方がされている現在、
それが指す意味内容は基本的に
“人と人との物理的な距離”であり、
ソーシャルディスタンスというよりフィジカルディスタンスと言えるのではないか?と。

私も、15秒くらいはそう思った。
だが、結論を先に言えば、
私は現在の日本社会一般で言うソーシャルディスタンスは、
ソーシャルな距離である、社会的な距離であると考えている。


昨今の社会情勢の中で
“ソーシャルディスタンス”という言葉がメディアに躍り出るようになった頃、
「ん?ソーシャルディスタンスってそういう意味で使うの?へ?」
と私の左右の眉はソーシャルディスタンスを守らず中央へ寄った。
大学院で社会学を専門としていた私にとって、
“ソーシャルディスタンス(=社会的距離)”と言えば、
ロバート・E・パークら“シカゴ学派”の社会学者たちによって
構築された概念が先に浮かんでしまうのだ。

教授に怒られそうなくらいサクッと説明すれば、
人間は都市で生活していれば、
自分にとって“物理的には近くても社会関係的には疎遠な他人”がいるであろう。
そういった人と人の社会関係的な距離を
シカゴ学派の社会学者たちは“ソーシャルディスタンス”と呼んだのである。
彼らはこの概念を使って、
同じ都市にいる人びとの、特に人種間の“距離”を測定しようとしたのだ。

上記で分かる通り、
社会学で言う“ソーシャルディスタンス“では、
もちろん物理的な距離も要素としては重要なのだが、
“物理的には近いのに社会関係的には遠い”というようなことを論ずるときに
“ソーシャルディスタンス”という言葉を使うので、
昨今の日本社会一般におけるソーシャルディスタンスという言葉の使い方を見て
「んなのただのフィジカルディスタンスじゃねぇか!」
と一瞬私は思ってしまったワケである。

だが、私はすぐに以下のように思い直した。
これだけニュースで
「ソーシャルディスタンスは2m以上取りましょう」
などという呼びかけがおこなわれ、
カタカナと恋仲の知事が会見で
「ソーシャルディスタンスが云々」と述べ、
電車でも混雑していない限りは座席を1つ空けて
座らなければならないような空気が漂っているのが、
今われわれが生きている社会である。

人と物理的に離れる行為が、
社会において“エチケット”として一般化していく。
社会的な同調圧力によって、
他人と物理的な距離を取ることを余儀なくされる。

現在の日本におけるソーシャルディスタンスは、
“社会的に生み出される物理的な距離”という点で、
極めてソーシャルであると言えるのではないか。
ソーシャルディスタンスは、まさしく“社会的な距離”なのではないだろうか。

ふー、よかったよかった。

危うく、
「はい~ソーシャルディスタンスの使い方ちがう~
本来はこういう意味です~キミ達のは
ソーシャルディスタンシングという言葉の誤用です~」

というような高校時代によくやった奥行きのない批判をするところだった。
身体や情緒はともかく、思考という面では
“永遠の17歳”をやってしまってはいけないのだ。
なぜならば、ダサいからである。


という発想が、まだ17歳である。