自分以外の人間は全員コンピューターだと思うことがある

自分以外の人間は全員コンピューターだと思うことがある

2020年9月2日

私はこの仮説を捨てきれない。
自分以外の人間は全員コンピューターなのではないだろうか。

皆さんも思ったことはないだろうか?
自分が目にしている人びとはすべてNPC
Non Player Character=ゲームでコンピューターが操作するキャラ)で、
ハタ目には私と同じ人間に見えるが、
実はこの世界のゲームマスター的なプログラムのコントロール下にある無機質な存在である…
そんなことを私は考えるのだ。

この私の観念は映画『マトリックス』シリーズの影響が強い。
『マトリックス』シリーズを観たことのあるNPC諸君は分かると思うが、
『マトリックス』シリーズのあの仮想空間内に自分がいて、
他の人は種々様々なプログラムによって稼働しているNPCだという観念である。
『マトリックス』シリーズはストーリーが難解なため学生時代に何回も、
難解なため何回も観た結果、
そういった“人類皆NPC”の観念が頭から離れなくなったのだ。

「そういう妄想は思春期に置いて来いや」

というそこのアナタ。
アナタはこの“人類皆NPC”説を否定できるだろうか?

近代を代表する哲学者、ルネ・デカルトは
「我思うゆえに我あり」
という論法で自己の存在を証明した。

目に見えるもの、手で触れるものが存在しないとしても、
このように思考している“私”は確実に存在している。
そういった論理である。

だが、デカルトと言えども
証明できるのはあくまで自分の存在であって、
私の周りにいるNPC疑惑の他人が人間であると証明することはできない。

(現にデカルトは懐疑主義の立場を取っているが、独我論とか類推論とかの哲学の込み入った話には立ち入らない。)

「でも、他人が人間であるということを証明できないなら、
同様にNPCであるということも証明できないのでは?」


と言われれば、全くその通りである。

だが、だからと言って

「じゃあ“人類皆人間”ってことでも別にいいじゃん」
「そうだね、特に不都合ないし」
おしまいっ。

とすると、

せっかくここまで考えたのに
なんだがもったいない気がするので、

私は頻繁に、“人類皆NPC”説を頑張って肯定してみようとするのである。

たとえば、
通勤の際に意図的に肩をぶつけてくる人や、
ウィンカーを出さずに割り込みをしてくる人といった、
“嫌なことをしてくる名前も知らない人”と出会ったら、
私はいつも“人類皆NPC”説を持ち出す。

「今の人はNPC。私に肩をぶつけてくるようにプログラムされているんだ」

これはなかなかに都合がいい。
人間はイライラしなくていいことにイライラしてしまいがちだが、
多くの場合、それは
他人が自分と同じ人間だと思うからである。

だから、そういった人間をNPCだと思うと、
怒る気が起きなくなる。
なぜなら、肩をぶつけてきた今のアイツは、
所詮はクリボーやノコノコと同様の存在だからである。
マリオに向かって突っ込むようにプログラムされているクリボーが
ぶつかってくるのは、当然のことである。
マリオはクリボーにぶつかられたくらいでは憤慨しないのだ。

以上のような状況で“人類皆NPC”説を持ち出せば、
他人の挙動に納得がいくようになるので、
この説に肯定的になることができる。

だが、悲しいことに、

仲のいい人間に限って、
私の“人類皆NPC”説を否定しにかかるのだ。

たとえば、である。

大学時代からジャーナリズムに関心があり、
将来は記者になりたいと言っていた友人。
見事大手メディアの記者となり、
生まれ育った横浜から盛岡へ赴任した。


縁のない盛岡という地で、
独り記者としての研鑽を積む日々。
職場には今の時代にそぐわない、
すぐ怒鳴り声を上げる理不尽な上司がいたそうだ。
飲みに誘って、愚痴をこぼせるような友人も、近くにはいない。
私には言わなかったが、きっとつらい夜もあっただろう。

そんな時に、彼は同じ業界で働いていた1人の女性と出会う。
学生時代から“カタブツ”と周りにいじられ、
浮いた話が全くなかったヤツなのに、
結局仲間内では一番早くに結婚した。
本当はデレデレなのにクールな顔を作って報告してきたことが忘れられない。

しばらくして、彼と奥さんの間に愛娘が生まれた。
私がお祝いをしようと盛岡に行ったとき、
彼と奥さんは交互に娘さんをずっと抱いていた。
「ずっと抱いてるの?隣で寝かすとかもダメなの?」
子育てをしたことのない私は彼に訊いた。
「うん、この子はね、ずっと抱いてないとギャン泣くの」
彼は愛娘に目をやりながら答える。
「そうなんだ。やっぱり子育ては大変なんだな」
と私が言うと、
「いや~大変すっよぉ~?」
と困ったように、それでいて嬉しそうに笑っていた。

こんな彼がNPCの訳がないじゃないか。

“人類皆NPC”説は、あくまで縁がなく共感性の低い他人に通用するのである。
もちろん、上で書いた彼がNPCであるという可能性がなくなる訳ではないが、
彼を知り、言葉を交わし、
より多くの時間と空間を共有することで、
彼への共感性が高くなっていき、
そうなると彼がNPCには“思えなくなってくる”のである。

その人の人となりや身の上を知れば知るほど、
私と同じ1人の人間として生きているという想像ができるようになり、
“人類皆NPC”説が私の中で疑問符がつくようになる。

ただ、先程も言ったが、
それでもなお“人類皆NPC”説を論理的には否定できないのが、
この世の悲しさである。

そんな訳で、
論理と情緒の両面に折り合いをつけるため、
私は日常的には
“人類私の知らん人はNPC”説を持ち歩いているのだ。
軽量だし無料で携帯できるので、おススメである。