「おいしく召し上がれますように!」って言われても

「おいしく召し上がれますように!」って言われても

某たこ焼き屋さんでたこ焼きを買うと、
店員さんに商品を渡されるときに

「おいしく召し上がれますように!」

と心地よい笑顔で言われる。

そのたこ焼きはとても美味なので、
まず間違いなくおいしく召し上がれる(自敬表現)のだが、

「おいしく召し上がれますように!」

の一言に毎度毎度、若干の引っ掛かりを覚える。

本当に若干である。
駅のホームの電光掲示板で流れる文字を読んでいたら
1ドットだけ消えている箇所を発見したときに抱くぐらい
の若干の引っ掛かりである。

飲食店を営んでいらっしゃる方々からすれば、
来店者には商品を「おいしい!」と思ってもらいたいだろうし、
その来店者に「また来てほしい!」と思うことも、また当然である。

“おいしく召し上がってほしい”という願い自体を否定するつもりはまったくない。

ただ、
「おいしく召し上がれますように!」
と言われると、私は
「プレッシャーをかけないで…」
と1ドットくらい思うのだ。

「おいしく召し上がれますように!」

「れ」可能表現であり、それを可能とするか否かは
最終的にはこの言葉を言われた私次第である。

たしかに、おいしい・おいしくないは
結局のところ個人の好みなので、
その意味では「おいしく召し上がれ」るかどうかは私依存の案件だ。
この点で、銀色の店員さんは何も間違ったことを仰っていない。

だが、私という“個人の好み”は、
私自身で意図的に変更することはできない。

つまり、
「おいしく召し上がれ」るかどうかは私次第なのだが、
一方でその私も「おいしく召し上が」ることを意識的に選択することはできないのだ。

どんなに「おいしく召し上が」ろうとしても、
仮に私の口に合わなければ、
その料理はどう頑張ってもおいしくないのだ。

にもかかわらず、
「おいしく召し上がれますように!」
という可能表現は、語感として
なんだがちょっぴり私自身に裁量があるかのような感じを受ける。

まさか…マズい場合は味覚を変えろ、と..?

さすがにそんなことを要求されているとは思えないが、
仮にそういう意味でないとしても、

「ちゃんとアナタが容器を水平にして持ち帰りますように!
道に落として砂まみれにしませんように!
冷えて鮮度を落としませんように!
マヨネーズの配分を間違えて味のバランスを崩しませんように!」

と、私の行動次第でどうにかできる領域について願いを掛けられている気がする。
よって、遠回しに店員さんに「おいしく召し上がれ」るための
プレッシャーを掛けられているように感じてしまうのだ。

「ワタシ達の願い、ちゃんと叶えてね。」
みたいに託されている気がする。1ドットだけ。

現実には、
私がやらかして容器を垂直にして持ち帰り、
底の方でプリンみたいな形のたこ焼きになっていても
いつも通りおいしいので、何か問題が起こることはまずないのだが、
上のような1ドットのプレッシャーから、
たこ焼きを口にする前にいつも思うのだ。

「おいしく召し上がれますように!」と。