若者が歌う『うっせぇわ』を擁護してみた

若者が歌う『うっせぇわ』を擁護してみた

2021年3月4日

 Adoさんが歌う楽曲『うっせぇわ』(作曲・作詞はsyudouさん)が、特に若者(ここでは10~20代前後の人びととする)の間で流行っている。どれくらい流行っているかというと、一定数の保護者や教師たちが対応に困惑する程度には流行っている。流行歌なんてどんな時代にもあったはずなのに――“恋ダンス”は一緒に踊っていたくせに――なぜ大人たちが『うっせぇわ』を歌う若者に困惑し、時には歌うのを止めにかかるのかと言えば、第一義的には“言葉が乱暴”だからであろう。だが、言葉の粗暴さにつられて『うっせぇわ』を安易に非難してはいけない。少なくとも、若者と関わる必要のある大人たちにとってこの歌は耳を傾ける価値がある。

 この歌はただの中二病が作った歌ではない。インパクトが強い言葉を使えば注目されるだろうといった安い着想から作られている歌でもない。この歌にはいくつかの解釈があるが、筆者がこの歌を最初に聴いたときに、現代若者の声にならない(声にできない)叫びと捉えた。以下はあくまで「こういう捉え方もできるよ」という仮説に過ぎないが、この歌は現代の若者が抱える自己の問題と関りがあるように思える。以下では、歌詞の引用箇所は鍵括弧でくくり、斜体でこの色を付ける。

1.『うっせぇわ』のテーマ:先鋭化された現代若年層の価値意識

 『うっせぇわ』の歌詞を額面通り受け取って一言でまとめれば、“できる若者が凡庸な中年にクダを巻く”歌である(できる・凡庸はあくまで歌に登場する「私」の評価だが)「ちっちゃな頃から優等生「模範人間」「天才」「私」は、「ルール」「マナー」をいちいち指導してくる「一切合切凡庸なあなた」に対して罵詈雑言を並べ立てている。

 この「私」具体的に何に対して「うっせぇうっせぇうっせぇわ」と吐き捨てているのかを辿ると、

「最新の流行は当然の把握 経済の動向は通勤時チェック 純情な精神で入社しワーク 社会人じゃ当然のルールです」

あるいは、

「酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい 皆がつまみ易いように串外しなさい 会計や注文は先陣を切る 不文律最低限のマナーです」

というような、年配の大人が“社会共通の”価値規範を振りかざしてくることに対してであることが窺える。
 “価値規範”ということに関して言えば、リースマンやギデンズ、あるいはベックといった著名な現代社会学者らを参照すると、現代社会では価値規範が多様化し流動化していると考えることができる。彼らによれば、旧時代には社会共通の価値規範と呼べるものが存在していたが、様々な社会的要因によって時代とともに個人が各々の価値規範を持つ時代へと変わってきた。以前の時代と比べて“常識”というものが社会的に機能しなくなり、それぞれの生きてきた環境によってそれぞれが独自の価値観を持つような現代社会を生きる若者にとって、もはや社会共通の価値規範など無いと言っても過言ではない。

 よって、上のような説教は若者から見れば「そんなのオマエの価値観だろ」ということになってしまう。ここで注意すべきことは、世代ごとの価値規範の対立はどの世代間にも起り得ることだが、従来のような“価値観A vs 価値観B”のような対立構造ではない、ということである。たとえるなら、互いに戦争をして勝とうとしているA国 vs B国という対立構造ではなく、戦争をして勝とうとしているA国と戦争反対を訴えるB国というような、少々ねじれた対立構造になっているのだ。

 “社会共通の”価値規範を主張する「あなた」という大人と、自分の価値規範を他人に押し付けること自体を良しとしない「私」という若者の対立。しかも、「あなた」が踏み込んできている領域は、“個人の価値規範”という、自己アイデンティティに関わる領域である。「あなた」にとってはその説教がちょっとした“教育”であったとしても、「私」にとっては“個人の価値規範”というプライベートで不可侵な領域に土足で踏み込まれたように受け取れてしまう。だからこんなにも叫んでいるのである。

 『うっせぇわ』の歌詞は、そんな“個々がそれぞれの価値規範を持つすることを是とする”ような現代若年層の価値意識を先鋭化、つまりトガりにトガらせたものなのではないだろうか。この価値意識の先鋭化の方法=“汚い”言葉遣い、あるいは奢ったような口調が『うっせぇわ』に対する様々な不評の要因となっていることは否めない。だが、以上のことを踏まえれば、「私」が2番のサビで叫んでいる「現代の代弁者は私やろがい」というのはあながち間違ってはいない。

2.『うっせぇわ』の話法:トーン・ポリシング

 キング牧師の時代から言われていることではあるが、Black Lives Matter(≒黒人差別撤廃運動)を批判する論法として、“トーン・ポリシング”が昨年も話題に挙がった(蛇足だが、どこからが“話題”なのだろう”?こういう使い方は恣意的だなと思いながらも、自分もつい使ってしまう)。トーン・ポリシングとは、とある主張に対して「もう少し静かに言えないのか、キミ?」などと相手の声のトーンや口調を非難することでその主張を退ける方法であり、反論ができないときに論点をそらして自らの立場を優位にしようとするという“汚い”やり方と見られることも多い。

 『うっせぇわ』の「私」は、「社会人じゃ当然のルールです」「不文律最低限のマナーです」と指導してくる「あなた」に対して「うっせぇうっせぇうっせぇわ」トーン・ポリシングのオンパレードを繰り出す。そもそも、「私」はこの罵詈雑言を実際には口にしていないので議論もへったくれもないのだが、「私」は『うっせぇわ』全体を通して、「あなた」の主張に対して一切と言っていいほど上手な反論ができていない。「一切合切凡庸なあなたじゃ分からないかもね」「くせぇ口塞げや限界です」などとトーン・ポリシングを吐き捨てながら、「口にしないまでも頭の中では理にかなった反駁ができるのかな?」と思えばそういうこともなく、最終的には「問題はナシ」と自らこの問題を打ち切ってしまう。『うっせぇわ』に不快感を覚える人の中には、この点が気に障る人も多いであろう。 

 あらためて活字に起こすと「私」の叫びはなかなかの詭弁であるようにも見えるが、筆者は「私」にはトーン・ポリシングせざるを得ない理由があるのではないか、と見ている。「ちょっと説教されたくらいで、こんなにトーン・ポリシングまでして叫ぶことか?」と思われるかもしれないが、先程も述べた通り「私」にとってこの問題は“個人の価値規範”という自己アイデンティティに関わる問題であり、「あなた」の言うことに黙って従うことはできない、と捉えることができる。「そこまで言うか?」と思えるくらいの言葉遣いは、逆に言えばそこまでして「私」が自己を守ろうとしている表れでもあると言える。だから、トーン・ポリシングせざるを得ない。

 すると、「だったらそんな粗雑な言葉を使わないで、理路整然と反論すればいいじゃないか」という話にもなり得る。たしかにその通りなのだが、ここにも「私」――延いては現代の若者――が理路整然と反論できない事情がある。その事情とは、「私」が2つのジレンマを抱えている、ということである。

3.「私」のジレンマ:本当に「問題はナシ」なのか

 第一に、「私」“個々がそれぞれの価値規範を持つすることを是とする”という価値相対主義者の側に立つならば、「あなた」の価値規範もまた否定することができない、というジレンマである。これは、いわゆる自己言及のパラドックスである。
 「社会人じゃ当然のルールです」「不文律最低限のマナーです」という「あなた」の主義・主張を、価値相対主義的な「私」は否定しようとしている。だが、「あなた」の主義・主張を否定することは、同時に“個々がそれぞれの価値規範を持つすることを是とする”という「私」自身の主義・主張を否定することに他ならない「私」「あなた」に論理的に反論すればするほど、意識的に自己否定せざるを得なくなってしまうのだ。

 第二に、「私」「あなた」のような大人の価値規範を否定しながらも、少なくとも行動の面においては「あなた」を含む大人たちが作った価値規範に従って生きているというジレンマを抱えている。先程も少し触れたが、「私」が『うっせぇわ』で導き出す結論はとても興味深い。

「頭の出来が違うので問題はナシ」
「アタシも大概だけどどうだっていいぜ問題はナシ」

 なんと、問題はないと言うのである。最初は「正しさとは 愚かさとは それが何か見せつけてやる」と息巻いていたのに、結局「それが何か」を具体的に提示できずに『うっせぇわ』は終わってしまう。あれだけ散々暴言を(心の中で)吐きながら、盗んだバイクで走り出さないし、夜の校舎で窓ガラスを壊して回りもしない。「だったら言葉の銃口を その頭に突きつけて撃てば」とは言っているが、実際に言葉の弾丸を放ったのかは不明であり、これを仮定形と解釈するなら「私」は結局のところ何も喋っていないし、何も行動していないことになる。
 なぜ反抗の意を込めた行動に移さないのか、あるいは移せないのかを歌詞から導き出すならば、結論は「私」「優等生」「模範人間」だから、である。この点は非常に重要である。
 「私」は自らが「優等生」「模範人間」であることを認めているが、“優等”“模範”の基準は「あなた」のような大人の価値規範である。つまり、「私」「あなた」たち大人の価値規範を否定しながらも、行動面では「あなた」たち大人の価値規範に、“模範”となるレベルで従ってしまっているのである。こういう子どもたちは昨今の学校現場ではよく見られる。

 「価値規範なんて人それぞれなんだから押し付けて来るな」と言いつつ、その相手に自分の価値規範を押し付けてしまっている。「こんな大人が作った価値規範おかしいぜ」と突き放しつつ、自らもその大人が作った価値規範を身に着けてしまっている。自身が抱えるこの2つのジレンマに、「私」も薄々気づいているように見える(だから最後に「アタシも大概だけど」と言ったのかもしれない)。
 以上のことから、上手く言葉で表せないし、行動も起こせない。殴ったりしないし、刃向かったりしない。散々文句を言った挙句、問題を――ともするとこの叫びそれ自体さえ――なかったことにしてしまう。自己アイデンティティという、切迫した問題があったはずなのに。

 「私」「困っちまう これは誰かのせい」という、新自由主義者が聞けばバケツが飛んできそうなことを言っているが、筆者にはどうにも“ただの責任転嫁”とは思えない。これほどまでに価値規範が錯綜する時代はかつてない。そうだとすれば、“アイデンティティ”という言葉を世に広めたエリクソン本人の考えからしても、自己アイデンティティの獲得が極めて困難な時代であると言える。そんな時代に生まれた「私」“個人の価値規範”という自己アイデンティティに関わる領域に踏み込まれているのに「困っちまうってオマエがどうにかしろよ」と斬るのはあまりに酷である。強いて言うなら時代のせいなのである。

4.おわりに:『うっせぇわ』という“教育的ではない”歌

 この「私」は決して特殊な気質を持つ若者などではない。いわゆる不良やヤンキーが金八先生の時代と比べて少なくなり、表面的には“真面目”な子どもたちが増えたこの現代では、「私」はむしろ典型的な若者である。そうであるならば、「私」のように錯綜した思いを抱える若者は決して少なくないはずである。
 以前の時代に比べ“配慮”しなければならない物事が増え、多様な価値規範を認めることが是と教えられながらも、結局は一定の価値観をある方向から押し付けられる。ジレンマを抱えながらも、それを昇華するやり場も方法も分からない。『うっせぇわ』の歌詞は、そんな時代に生まれてしまった若者たちの叫びのように思える。

 内面にはやりきれない思いを抱えながらも、何も言わないし、何も行動しない「私」。仮に、上で述べたようなジレンマを抱えているというのが筆者の考え過ぎだとしても、そもそも「私」はこの叫びが「あなた」のような大人には届くと思っていないし、1.でも述べたが現代の若者は“価値規範の戦争”を大人世代としたいわけではない。思想は相容れなくても反抗する気はないのだ。
 「大人たちはオレ達を分かってねぇ!」という思いは大なり小なりいつの時代の若者も感じたことであろうが、そこで15歳で不良と呼ばれるようなヤンキーになって周りの人びとに食ってかかるような若者像は、旧時代の遺物となってしまったように思える。

「いいよ、言わなくて。どうせ大人たちは分かんないもん」

 「問題はナシ」。結局、そう自分に言い聞かせることが「私」を含めた若者たちの落としどころなのだ。自分たちの価値規範を大人たちに主張することで自己アイデンティティを確立していくのではなく、“何もしない”ことで自らのアイデンティティを模索する現代の若者たち。

 でも、もし自由に喋っていいなら…

 『うっせぇわ』はそんな現代若者特有の心性をよく反映させている。だからこそ、上のようなことまで深く考えていない若者も“つい”歌ってしまうのだ。それなのに、『うっせぇわ』は“教育的ではないから歌わせない”ということをしていては、現代若者との世代間対立を超克することはできない。
 ニコニコして聴けばいいのだ。いつもは心に渦巻くものを見せてくれないのに、それを嬉々として歌ってくれているのだから。

参照:
Beck, Ulrich, 1986, Riskogesellshaft, Suhrkamp Verlag.(=[1998]2013, 伊藤美登里訳 『危険社会――新しい近代への道』法政大学出版.)
Erikson, Erick, 1959,Identity and the Life Cycle, International Universities Press.(=2011,西平直・中島由恵訳『アイデンティティとライフサイクル』誠信書房.)
Giddens, Anthony, 1991, Modernity and Self-identity: Self and Society in the Late Modern Age, Polity Press.(=2005,秋吉美都・安藤太郎・筒井淳也訳『モダニティと自己アイデンティティ――後期近代における自己と社会』ハーベスト社.)
Riesman, David, 1950, The Lonely Crowd,Yale University Press.(=2013,加藤秀俊訳『孤独な群集』上下巻 みすず書房.)