黙祷について思うこと

黙祷について思うこと

私は何でもかんでも黙祷するのは好きではない。


“○○から△年”とか、それにあわせた黙祷のニュースを見るたびに、

「発言は、ある物事の肯定と否定を同時に表す。わかるかキミドリア?」

とめっちゃ怖い哲学の先生にほぼマンツーマンで講義された大学時代を思い出す。

「ボク、好きな人がいるんだよね」
と言ったら、それは同時に

「ボク、好きじゃない人もいるんだよね」
という意味も裏に潜むことになる。そういうことだ。

黙祷という行為も同様である。

ある事件や事故、災害や特定の人物に対して黙祷することは、
同時にその他の事件や事故・災害等で亡くなった方々へ“黙祷しないこと”でもある
(すべての死した人へ日々黙祷を捧げている聖人君子がいれば別だが、おそらくいないだろう)。

無論、黙祷という行為を否定しているわけではない。断じて。
黙祷は個人と故人の社会関係においておこなわれるものであり、
ある故人に対して安寧の祈りを捧げることは、
個人が築いた関係に依るものである。

だからこそ、たとえば学校現場で
「東日本大震災で亡くなられた方々へ黙祷を捧げましょう」
みたいなことを、被災した地域でもないし特に震災と関わりのない、
つまり社会的関係のないところでするならば、
あなたたちはすべての災害に対して同じことをしているか?と訊きたくなる。

ある人へ黙祷を捧げることは、
“黙祷が捧がれない人”を生み出すことでもある。

それを自覚していない、
“関係”において行われない黙祷を見ると、
いつも胸がモヤモヤする。
正体はおそらく、“偽善”である。